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信用機構局消滅の感慨
 日銀俗称は信機(シンキ)。発足は約15年前。金融システム安定を主眼とした局の創設は当時としては中央銀行の中でも先駆的と言われていた記憶がある。結果的にバブル崩壊に伴う幾度かの金融危機に際して機能を発揮したが、それを見越しての創設だったのかどうかは微妙。日銀はエリートを多く採用するが、政策の企画立案に携われるのはほんの一握り。このため、金融システム面でも企画立案機能を作り、エリート養成の窓口を広げた、という説も根強い。現に主要幹部には精鋭が投入され、故本間理事、増渕前理事らが顔役となった。
 1997-98年の金融恐慌はセーフティネットがない中で勃発したため、信機は前線の営業局と共にシステムの決壊防止に尽力。当時大蔵省銀行局と密接に連動して破たん処理に当たった。当時の布陣は、本間理事、増渕局長、中曽課長(現金融市場局長)で、振り返ると存在意義として信機が最も輝いた時期の最強ラインナップでもあった。強面局長の存在もあって、非常な緊張感に満ちた同局は、「特殊部隊」のような雰囲気を漂わせていた感が強い。
 精鋭を投入した局を作ると、その他エリート局との間で微妙な対抗意識が生まれるもの。エリートの系譜としては従来の企画系、営業系に加え、信機系が重なる格好となった。対立構図としては、特融などで日銀バランスシートを毀損させた信機に対し、企画系がかなり強い反発を見せていた。信機・企画の感情的対立はその後も尾を引いた印象を受ける。
 セーフティネットの充実に伴って信機の存在意義は薄れ、今回の消滅に至ったわけだが、現在の担当理事はもともとバリバリの企画系。従って、エリートの支配構造としては、営業系が汚職事件で脱落。続いて信機系が消え、最終的に企画系による支配が確立したのではないかと受け止められる(なお、エリートの系譜は明確なものではなく、あくまでも私見です)。
 信機に対する風当たりの強さは分からぬではないが、当時インタバンクを取材していた立場からすると、毀損したとは言え、特融の判断は現実的には仕方がなかったのではないかと個人的には同情する面もある。私は営業局の取材が多かったが、あの局面に立ち会った者として獅子奮迅の働きをした信機の消滅には深い感慨を覚える次第である。合掌
by bank.of.japan | 2005-03-18 21:16 | 日銀 | Comments(4)
Commented by ばぶるばすたー at 2005-03-18 22:41 x
91年から98年まで不良債権の最前線で働いた者から思うと、信用機構局の消滅というのは非常に感慨深いものがあります。あの8年間のことは多分一生忘れないと思います。色々な意味で戦友の去り行く姿を後ろから見送っているような気持ちがします。私に「信用」が金融の根源であることを教えてくれた時代だったのでしょうね。良い勉強をさせてもらいました。
Commented by bank.of.japan at 2005-03-19 01:10
最大級の賛辞だと思います。私の場合、「資金繰り」の真髄を思い知り、「流動性危機」の凄まじさを目撃し、概念的でしかなかった中央銀行のLLR(最後の貸し手)の重要性が刻み込まれました。記者人生として異常なストレスのかかった時期ですが、得がたい経験でもあったわけです。ある意味、量的緩和でああだこうだと議論することなど、あのころを思えば、他愛もないことなんですよね。
Commented by ばぶるばすたー at 2005-03-19 22:00 x
外貨調達困難から始まった流動性危機のことを思い出すと今でも気分が悪くなります。当時巨額のドル建て貸付金ポートフォリオの面倒もみていたので、ファンディングのロールオーバーの度に外貨のマネーディーラーに嫌われていたのを思い出します。ジャパンプレミアムって言ってましたね。

誰も金融機関を潰した事がなかったので、どれほどバランスシートが腐っていても中銀は資金繰りをつなげてしまっていたのですよね。それがある瞬間崩壊し、周りを巻き込んで大渦を作っていったというのが97年、98年の資本市場だったように思います。
Commented by bank.of.japan at 2005-03-20 00:00 x
日銀諸氏も見ているので、彼らへの要望としてのコメントでもあるのですが、当時営業局の各課が合同でまとめたというリポート。当分はマル秘扱いかもしれないけれど、いつの日か何らかの形で公表して欲しい。実務的な記録は、後世の金融マンに貴重な資料になると思っております。あれほどの危機でも記憶は風化し、伝承すべき人材もちらばりつつあるので。
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